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愛と祈り

子どもに人気の童話の主人公「クマのプーさん」は、カンガルーのカンガが飛び跳ねて行くのを見て思います。「僕もあんな風に跳べたらなあ。できる人とできない人がいる。それが現実というものだ。」

従うことが、礼拝すること

キリスト教系高校の聖歌隊の引率をして、各地の教会を訪問しました。生徒たちが礼拝賛美で奉仕するのを目の当りにするのは、嬉しい体験です。しかし、教会以外の場所で目撃した彼らの行動は、それ以上に素晴らしいものでした。ある日、生徒たちはガソリンを買うお金のない女性に出会い、即座にカンパを決めました。神の導きだと思ったからです。彼らは数回の給油に相当する額を彼女に差し上げました。

祈ってください

私たちのバイブルスタディのグループは、あるとき帰国中の宣教師を招いて話をしてもらいました。親族や友人に別れを告げ、身の回りの物をまとめて遠い国に引越すとはどのようなものか、その人は語ってくれました。家族を伴って任地に到着すると、出迎えたのは交通ルールは皆無と思われる危険な道路と、麻薬売買が大盛況という現実でした。言葉の壁は、孤独の苦しみをもたらしました。彼女たち家族は4種類の伝染病に感染しました。長女は、危険な吹き抜けの手すりから落ちて、あやうく命を落とすところでした。私たちは、この家族のために祈っていかなければならないと思いました。

使徒パウロもまた、危険と困難に遭遇した宣教師です。彼は投獄されたり、遭難したり、鞭打たれたりしました。ですから、祈ってほしいと手紙で嘆願しているのは驚くに値しません。彼は、テサロニケのクリスチャンに「主のみことばが…早く広まり、またあがめられますように」(Ⅱテサ3:1)、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」(2節)祈ってほしいと頼んでいます。また、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」(エペ6:19)祈ってほしいと、別の手紙には書かれています。

あなたは、神の超自然的な介入が必要な宣教師がいることを知っていますか。パウロの「兄弟たちよ、私たちのために祈ってください」(Ⅱテサ3:1)という訴えを思い出しましょう。そして、力ある神の御前に、宣教師のためのとりなしの祈りをささげましょう。

すべてのことに感謝する

私の娘は重いピーナツアレルギーで、ほんの少し口に入れただけでも生命にかかわります。そこで私たちは、食品の包装ラベルを綿密に調べ、どこに行くときも、アレルギー処方薬が入った注射器を持参します。外食をするときは、前もってレストランに電話し、メニューの品目についてしつこく尋ねます。

このように用心していても、娘の安全が守られる保証はありません。私は、こういう状況に感謝することはなかなかできません。しかし、神のみことばは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ5:18)と、チャレンジを与えます。神は私たちに感謝の心で祈って欲しいと語られるのです。それは、未来が不確かでも、悲嘆に暮れることが起こっても、家計が苦しくてもです。言い訳はできません。

苦境の中で感謝するのは容易ではありませんが、不可能でもありません。ダニエルは自分の身の危険を知りながら、「神の前に祈り、感謝して」いました(ダニ6:10)。ヨナは魚の中で、「感謝の声をあげて」叫びました(ヨナ2:9)。ふたりの例、さらには、神はすべてのことを働かせて益とし、ご栄光を現されるという聖書の約束(ロマ8:28)は、すべてに感謝できるように、私たちを鼓舞してくれます。

祈る友人

数ヶ月間会っていなかった友人のアンジーと一緒に昼食をとりました。彼女は食事が済むと、メモ帳を取り出しました。そこには、前回会ったときに私が祈って欲しいと頼んだことが書きつらねられていて、彼女はずっと祈っていてくれたのです。アンジーはリストを読み上げながら、何か進展はなかったかと尋ねました。そして今度は、彼女の祈りのリクエストについて、私のほうが話を聞きました。祈り合う友人がいるのは、何という励ましでしょう。

使徒パウロは、自分が奉仕した教会の人々と互いのために祈り合っていました。テサロニケ教会も、そのような教会のひとつです。パウロは、テサロニケ教会の人々の信仰と愛、そして、キリストへの望みについて、いつも神に感謝していました(I テサ1:2-3)。パウロは再会を願って「昼も夜も」祈りました(3:10-11)。神が「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれてさせてくださ」るようにと願いました(12節)。彼らの心が、神の御前で責められるところのないようにとも祈りました(13節)。テサロニケの人々は、パウロが彼らを心配して祈っていることを手紙で読み、励まされたに違いありません。自分にも神のご臨在と御力が必要だと承知していたパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます(5:25)。

天の父と話したい、と願う心を私たちに与えてくださった神に感謝します。私たちが、誰かの祈りの友になることを学んでいきますように。

神を呼び求める

信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。

気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。

神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。

祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。

どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。

古き良き時代

私たちは時々、「古き良き時代」を懐かしく思い出します。しかし中には、過ぎた日の思い出は辛い記憶でしかないという人もいるでしょう。眠れぬ夜の闇の中、過去の失敗や失望、叶わなかった夢などがよみがえってきて、人生が自分にひどい仕打ちをしたのだと思い出してしまいます。

過去を思い出すときは、ダビデに倣ってみませんか。神の良くしてくださったことに思いを巡らし、じっくり考えるのがよいでしょう。ダビデは、「あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」と述べています(詩篇143:5)。神の慈しみを思い出そうとするなら、ずっと以前から主の恵みを受けてきたことに気付きます。このような記憶は最良のものを育てます。さらに深く神を求めたり、今以上に神に取り扱っていただきたいと真摯に求める気持ちを呼び起こします。このようにして過去を思い出すなら、それは神を良く知り、神と深く交わる機会となるのです。

ある老婦人が、ロッキングチェアに座って両手を膝の上で組み、何時間も遠くを見つめていたそうです。ある日娘が尋ねました。「お母さん、静かに座って何を考えているの?」すると、彼女は目をきらりと輝かせて、静かに答えました。「それはね、イエスさまと私との秘密よ。」

私たちの思い出や黙想が、私たちを主のみもとに引き寄せてくれますように。私はそう祈ります。

見捨てられない

ある日、カリッサ・スミスは地元の図書館にいました。可愛い声を出し始めた4ヶ月の娘と一緒です。不意に、年配の男性が「赤ん坊を黙らせろ、さもないとわしが黙らせる」とすごんできました。スミスは毅然(きぜん)と答えました。「機嫌のよい赤ちゃんに腹を立てるとは、ご事情があるのかもしれませんね。けれども、私は娘を無理に黙らせようとは思いませんし、あなたにもそうはさせません。」

開かれた門

1年で聖書を!
◆ Ⅱ列王記18-20
聖書のみことば Ⅰコリント16:1-12
 
働きのための広い門が私のために開かれており、―Ⅰコリント16:9

デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813年~1855年)は、「願いがかなうとしても、富や権力は望まない。ただ、いつまでも情熱的に可能性を見つめる若い目が欲しい」と書いています。